familybusiness’s diary

家族で貿易商社を営む日々のあれこれ/オンライン読書会はじめました

「逃げ恥」を見た②

逃げ恥の感想の続きです。

 

核家族が日本の家族形態の圧倒的主流になってから50年程度。一昔前と比べると我々の家族あり方は既にばっさり分断されているということになる。

「逃げ恥」の世界でも、家族=核家族が前提になっている。親世代の登場人物は田舎でセカンドライフを満喫していたり、元より地方都市在住だったりする。

さて「逃げ恥」で描かれた(核)家族における"生産性の追求"は、私としては核家族の先の「分断」を予感させるものだ。ドラマにおける画期的な概念であるヒラマサさんとみくりちゃんの事実婚関係は、「家族」から「愛情」を取り去って、「お金」と「時間」で生産性を評価する雇用関係の考え方を持ち込んだものだ。それが微笑ましく初々しく見えるのは、あくまでドラマだからである。

家庭における生産性の追求とは、家事・育児などの家庭の運営にかかる時間の削減だろうか。ビジネスの世界において「時間」は替えがきかない資源だし、短時間で成果をあげることは大いなる美徳だ。家庭においても、状況によってはそうだろう。けれど、この「生産性」信仰は、家族同士の会話の時間や、ただ一緒に過ごす、という時間を切り捨てることを正当化してしまうんじゃないかと思ってしまう。

「ルンバを買ったら掃除の時間が30分から10分になって生産性が20分上がりました!」の先には、「家族と過ごす1時間の会話の時間を10分に短縮したから、50分生産性が上がりました!」という世界が待ち受けているような気がしてならない。それは家庭の中で更に人々が分断される世界だ。常に時間のコストパフォーマンスを気にしなければいけない場所は、果たして我々の居場所たるだろうか。

ファミリービジネスであるうちの会社の人達は家族で集まってとにかく喋る。ひたすら喋る。もう少しおしゃべりを減らしたら売上げが上がるんじゃないかと思ってしまうくらい会話の時間は多い。これは会話の時間に「時間とお金の綱引き」では評価できない価値を見いだしているからだし、それが家族として・会社としての強さを生んでいる。こんな家族観が古くさく価値の無いものにならないといいと願っている。

 

その前提、おかしくない?

そもそも、なんでヒラマサさんとみくりちゃんはこんなにも必死に「生産性の追求」をしなければいけないのだろうか。このドラマの背景には、「生産性を突き詰めないと自由な時間は生まれないし、経済的にも豊かになれない」という大前提があるように感じる。みくりちゃんが商店街での仕事を始めただけで家庭の運営はパンクするし、ヒラマサさんはみくりちゃんの作り置きに頼らないとまともな食事にありつくことが出来ない。(cookpadの広告なんだろうけど)

ドラマだから彼らの生活はコミカルに微笑ましく見えるのだけど、全ての人がこの前提を受け入れてしまったら我々の社会は永遠に変わらないんじゃないかと思う。

うちの会社はこれだけしゃべってても残業などないし、将来的には週休三日を目指す構えである。昼食も夕食もほぼ自炊して頂いているのでワークタイムに仕事以外のことをやっている時間も多いのだけど、それでも家業は回っている。そういう意味では「生産性を突き詰めないと自由な時間は生まれないし、経済的にも豊かになれない」という前提に疑問を持つし、そう思う人が社会に増えたらいいなと思う。

 

長くなりました。"生産性"の旗印がますます強権を持つ時代だけに、簡単に捨てちゃいけないものには意識的にならないといけないなと思うこの頃です。

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