familybusiness’s diary

家族で貿易商社を営む日々のあれこれ/オンライン読書会はじめました

夏の思い出②

帰国子女の4歳児と過ごした夏の思い出 その2。

4歳児の言語能力は非常に柔軟。夏の間通ってたインターナショナルのサマースクールでは英語だけでなく関西弁も覚えてくるし、岡山に帰省したら岡山弁になって帰ってくる。大人達の会話に聞き耳を立てて、妙に大人びた言葉遣いもするようになった。

関西弁、標準語、岡山弁、英語の4言語が4歳児の脳の中でどのように処理されているのかは謎だけど、恐らく日本語、英語などという区別はなく、その時その場で目的を果たすために言語を習得していくのだろう。まさに生きた言語!

そして言い間違い、うろ覚えもすごく多いのだけど、間違いを恐れずにとりあえず口に出してみる。そんな4歳児のコミュニケーションへの姿勢というか意欲には見習わなきゃなーと思う。

 

この夏の姪っ子氏の言い間違いたち。

*惜しい!

「にんにく!」(筋肉)

「めんこたい!」(めんたいこ)

「わがらし!」(わたがし)

「オムライスにニコちゃんパーク描いて!!」(ニコちゃんマーク)

 

*全然違う!

「ばんそうこう食べたい!!」(こんぺいとう)

「おつけもの!」(ナマケモノの絵を見て)

 

*番外

バイキング形式のレストランで

「じゅんhexagonのやつ取ってきて!hexagonのやつ食べたい!」

???

hexagonのやーつー!!」

???

hexagonのやーつー!!はちみつかけるやつ!!!」

???

「もういいよ!!!(怒)」

正解はhexagon(六角形)の形をしたワッフルのことでした。分かるかっ!

 

f:id:familybusiness:20190930104113p:plain



 

夏の思い出①

今年の夏も中東某国に暮らす義妹一家が4歳になる姪っ子氏を連れて帰省してきた。現地の夏休みに合わせて、2ヶ月以上のロングステイである。現地の外国人居住区にある幼稚園に通う姪っ子氏は、そこに集まった世界中の子供達と一緒に学んでいる。もちろん言語は英語。既に私などよりよっぽど国際人である。

数ヶ月ぶりに会う姪っ子氏はまたもや成長しており、もはや赤ちゃん時代の面影はほとんどない。特に目を見張るのは言語の発達!姪っ子氏の自由で素直な発言はとても面白い。

ただ、英語圏から帰ったばかりの姪っ子氏は、日本語と英語を同時進行で習得している最中である。そのため日本語と英語が混ざる姪っ子氏にはたまにルー大柴感が漂う。

「ねー!テレビのnoisyを少なくしてよ!」

「ジュースは一人で全部飲んだらいけないからsharingするんだよ。」

「悪いことしたらpolice carが来るよ~!」

などなど。私は姪っ子氏の言っていることが聞き取れないこともしょっちゅうであった。

 

そんな彼女が今ハマっている遊びは"family(おままごと)"。「ねーえー!仕事終わったでしょう!?(終わってない)familyしよ!familyしよう!」と、familyをするときは必ず私を誘いに来てくれる。私は大体お兄ちゃん役。姪っ子氏は専らお母さん役、妻がお姉ちゃん役を担当する。そして適当なぬいぐるみを赤ちゃん役にして、familyの日常や非日常(旅行とか)を延々再現するのだ。

いつまでも飽きずにfamilyをやりたがる姪っ子氏を見ていると、演じることへの欲求は、この時期の幼児の本能なのではないかと感じるほどである。

そんな光景を見ていると尊敬する演劇人、平田オリザ先生の言葉を思い出す。

「人間は演じる生き物なのだ。進化の過程で私達の祖先が社会的役割を演じ分けるという能力を手に入れたのだとすれば、演じることには必ずなんらかの快感が伴うはずだ。平田オリザ」

彼女はまさに人類の進化(社会性の獲得)の真っ最中。彼女なりの目線で精一杯familyを観察し、色んな役割を追体験する中から生き方を学んで行くのだろう。姪っ子氏の目に映るfamilyの中に、少しだけでもfamily businessの風景が混ざるといいなと家業人としては思う。そんなことを考えながら、ひたすら"お兄ちゃん"に徹する夏でした。

 

定期的に育児ブログのようになるわたしのブログですが、姪っ子氏の話が続きます。

f:id:familybusiness:20190909225812p:plain

 

雑記:トムとジェリー展

雑記です。ずっと楽しみにしていたトムとジェリー展が大阪に来たので行ってきた。トムとジェリー展というよりはハンナ・バーベラプロダクション全般について扱う展示会であり、カートゥーンネットワークを見て育った私としては大満足の展示会であった。

アイルランド系アメリカ人のウィリアム・ハンナとイタリア系アメリカ人ジョセフ・バーベラの二人の出会いによって誕生した「トムとジェリー」は、当時ディズニー一色であったアニメ業界においてアカデミー賞を7回受賞するという快挙を果たす。トムとジェリーのヒットの背景には、戦争が本格化するにつれ、ハッキリした物語が好まれるようになったという事情もあるらしい。

「トムとジェリー」という作品単体よりも私が興味があるのは、親会社であるMGM(メトロ・ゴールドウィンメイヤー)スタジオがアニメ業界からの撤退を決め、ハンナ・バーベラの二人が一方的に解雇された後の物語である。ハンナ・バーベラはMGMから独立する形でプロダクションを立ち上げたものの、予算もなければ「トムとジェリー」の版権も無い、ブームが過ぎたアニメ映画にはもはや観客は集まらない・・という逆風の状況であった。

そこで彼らが目をつけたのが、テレビ×アニメーションという新しい市場。アニメーションを制作するのに現代の何倍も人手と時間がかかっていた時代、テレビ放映の予算とスケジュールでアニメを制作するのは無理だと考えられていた。ディズニーですら当時は非常に限定的な形でしかテレビのアニメ放送は実現できていなかった。

そこで彼らはスケジュールと予算を劇的に削減し、アニメを週次放送できる制作手法、リミテッド・アニメーションを発明した。(*1)血のにじむようなコスト削減の努力がされたにも関わらず、60年代、70年代に制作されたハンナ・バーベラの作品群は今でも色あせないハイセンス・ハイクオリティである。

日本では「チキチキマシンの猛レース」と「フリント・ストーン」あたりが知られているくらいだろうけど、日本ではマイナーな作品群も素晴らしいです。(画像から素晴らしいクリエイティビティとハイセンスが伝わるでしょうか)

f:id:familybusiness:20190825225129j:plain

f:id:familybusiness:20190825225135j:plain

f:id:familybusiness:20190825225126g:plain

f:id:familybusiness:20190825225120j:plain

f:id:familybusiness:20190825225412j:plain

キャラクターのキャッチーさだけでなく、スピード感のあるボケとツッコミや、ハイセンスなパロディ、大人もドキっとするような当時のアメリカ社会を皮肉るような演出はディズニーには真似できないものだろう。

ワーナーが映像配信サービスを始めるというニュースもあるので、膨大な作品群をいつか自由に観れる日が来るのかなと密かに期待している。(*2)

 

(*1)ちなみに、日本でテレビ×リミテッドアニメーションという手法を実現したのはご存じ虫プロ(手塚治虫)です。国産初のテレビアニメ"鉄腕アトム"はハンナバーベラから遅れること4年の1963年から4年間放映。虫プロは"ディズニーを"日本に輸入したという文脈で語られることが多く、ハンナ・バーベラの影響については語られないことが多い気がする。(ハンナ・バーベラの影響力が"低俗だから"という理由で軽視されているのであれば残念だなぁ。)

 

(*2)ハンナバーベラプロダクションは、紆余曲折を経て2001年以降はワーナーメディアの傘下です。事実関係がややこしいので以下にざっくりまとめます。

f:id:familybusiness:20190825225229p:plain

f:id:familybusiness:20190825225240p:plain

自宅オフィス開業②

自宅オフィスを開設するにあたって導入した物たち。

1、ブラザーのプリンタ DCP-J988N

貿易は書類が全ての世界。必然的にプリンターの稼働率が高く、大事な仕事道具である。ところが最近の家庭用プリンターは小型、高品質印刷を謳ったものが多く、インクカートリッジの色数が不必要に多かったり、カセットに格納できるコピー紙が少なかったりする。用途に合わないプリンターを買ってしまうと、プリンターのお守りに不要な時間を取られてしまう。

・印刷のクオリティにはそこまでこだわらない

・メンテの必要が最小限で使いやすい

・紙切れ、インク切れを気にしないで済む

・・という私のニーズに基づいた調査の結果、ようやく見つかったのがブラザーのプリンタ DCP-J988N。

f:id:familybusiness:20190816224616j:plain

このプリンターの最大の注目ポイントは超大容量のインクカートリッジである。(インク容量が標準モデルのなんと16倍という、規格外の大きさ!)

 

f:id:familybusiness:20190816224600j:plain

家庭用プリンターはインクカートリッジで収益を上げているというのは周知の事実だと思うが、このプリンターのカートリッジは採算度外視のハイコスパである。インクの色数は6色や7色が主流の中、潔い4色。そのぶんメンテが楽である。お陰で導入から3ヶ月経った今でもインクを交換していない。今となっては手放せない相棒である。

 

2、ヤマダ照明のデスクライト

なんだかんだデスクワークが多いので、目の健康を守るためにもデスクライトも慎重に検討した。疲れ目を軽減するデスクライトの条件は、光の明暗が少なく、手元の陰が出来にくいものであるらしい。そのため、①出来るだけ高い位置から②広い角度で照らす必要があるそうだ。

流行りのバルミューダとかも興味があったけれど、私はLEDライトが苦手なので除外。そもそも、LEDライトを除外すると選択肢は驚くほど少なかった。最終的に購入したのは山田照明というメーカーのデスクライト。大きく両手を広げたような形のデスクライトである。存在感はすごいけど、お陰で目の疲れは大分軽減されている気がする。LEDではなく蛍光管のライトメーカーさんもこの先、生き残ってて欲しいなぁと思う。

 

f:id:familybusiness:20190816224623j:plain

3、ダーツ板

私は考えが煮詰まってくると家中をうろうろする癖があり、割と妻のストレスになっていた。そんな私のうろうろ防止のために導入したのがこちら。

f:id:familybusiness:20190816224556j:plain

ダーツライブはスマートフォンが液晶の代わりになって、何十種類ものゲームや点数計算に対応している。最近は集中が切れてきたら1ゲームダーツを投げて気持ちを切り替えることにしている。お陰で私のうろうろも減って、家人に迷惑をかけることも少なくなってきた。

ソフトダーツ(矢の先がプラスチック)なので賃貸の壁にも安心・・・と思っていたら失敗したら普通に穴は空く。早く上達しないと退去時に大変なことになりそうだ・・

f:id:familybusiness:20190816225541p:plain

 

自宅オフィス開業①

私の自宅は大阪の堺というところにあり、妻の実家まで車で片道20分ほどの道のりを日々通勤している。家族4人で運営しているうちの会社はコミュニケーション量が大変豊富であり、事務所はいつも賑やかである。

家族で集まって喧々諤諤としながら働く時間も楽しいし大切なのだけど、一人こもって黙々と作業をこなす環境も必要になってきた。貿易の仕事は書類業務とか煩雑なルーティンワークが結構多く、そういった作業をまとめてこなさないと回らなくなってきたのだ。そのため、ようやく自宅に仕事部屋を作ることを決意した。

実は我が家には元々自宅オフィスにするつもりの部屋があるにはあったのだけど、長らく倉庫状態のまま放置されていた。開かずの間と化した部屋は、もはや開けることすら勇気が必要なくらいの乱れっぷりであった。。

大量の不要品をゴミ処理場に運ぶところから始まった自宅オフィス計画であったが、まる4日ほど時間をかけてなんとか完成した。

 

3年ごしに実現した自宅オフィスでの働き心地は、劇的に快適!

である。自宅オフィスは私の作業効率のみを考えて備品の選定から家具の配置まで一から考えることができた。私のワークスタイルに必要な環境を事前によくよく考えて設計したお陰で、理想のデスクまわりを実現することができた。

そして自宅オフィスの最大の利点は通勤からの解放である。通勤しなくてよいということは、出掛ける支度もしなくてよいということだ。起きたら寝巻きのままパソコンに向かい、作業メインの日は終日自宅にこもって働いたり、ワークスタイルも柔軟になった。(夕方まで寝巻きだったりします)ただでさえ少ない仕事のストレスは今やゼロレベルに近づいた。早く作ればよかったと思うほどに快適である。最高! 

続きます

f:id:familybusiness:20190806234524p:plain

 

読書録:リトルピープルの時代

*読書メモ

リトル・ピープルの時代

宇野常寛の評論3部作(・・と勝手に呼んでいるのだけど)の2冊目。

「ゼロ年代の想像力」の課題の中心が911同時多発テロ以降の世界であるとするならば、「リトル・ピープルの時代」の評論を駆動するのは東日本大震災がもたらした社会の(想像力の変質)だろう。

震災の混乱の中、私達は唐突に原子力という脅威を突きつけられた。原発問題の脅威がこれまでの国家的脅威と異なる点は、それが外部から現れた脅威ではなく我々の日常に内在し、そのために単純に排除することが出来ない点だ。

そして震災が起きた時代は、情報ネットワークの力によって無数の接続と無数の分断が生まれた時代でもある。GAFA企業の躍進に代表されるようにグローバル資本主義が台頭し、国家以上の力をもった巨大企業群がインターネットで世界中の情報と世界中の個人を繋いでしまった。張り巡らされた情報ネットワークは、まるで鉄条網のように無数の分断を生んだ。

原発問題という社会の内部に存在する脅威、インターネットの無数の接続が生む無数の対立(その極端な表出がテロの連鎖)。私達は、新しい時代の新しい課題を対処可能な政治(社会システム)も無ければ、有効な生き方も持たないまま時代の変化に振り回されるままに生きている。その混乱の本質は、新たな時代の新たな課題に、私達の想像力が追いついていないからである。本作では、震災以後の世界を捉えるための手法として、村上春樹、仮面ライダー、ウルトラマンを同時に批評するという実にアクロバティックな論法を展開する。

・・これだけ書くとまるでトンデモ本か悪い冗談のようだけど、これは真剣に我々の現在を論じる本だ。なぜならば、我々の想像力の限界を論じるためにはフィクションを論じることは欠かせない。市場の要請に応えることが存在意義である商業作品は、時代の空気を正確に反射する。ウルトラマン、仮面ライダーといった子供向け作品に描かれる世界は、まるで雨上がりの水たまりのように世界の歪みを映し出すのだ。

 

***

 

本作は、「歴史」や「国民国家」といった大きな物語がギリギリ成立していた時代、すなわち冷戦末期の1968年まで遡って論を始める。かつて「国民国家」とは明確な思想と物語を持ち、擬人化されることが可能な存在であった。誰もが共有出来る歴史を背負った国民国家は国民の父(=ビッグ・ブラザー)として機能していた。その後の冷戦構造の終結、消費社会・グローバリゼーションの到来など現在まで続く変化によって、国家に対して国民全員が共有できる「歴史」や「国民国家」といった大きな物語は成立しなくなってしまった。価値観の多様化、と簡単に言うには大きすぎる変化である。

そんな大きな物語の崩壊は、アイデンティティ不安の時代を経て、大きな物語を持たないまま誰もが小さな物語を生きる小さな父=リトルピープルとして機能してしまう時代を迎える。そしてリトルピープルの時代は、インターネットの力を借りながらますます極端に向かい、無数の小さな父=リトルピープルが無限に衝突し合う世界へと突き進んでいる。

本書では、このビッグブラザーの時代リトルピープルの時代の価値観の転換を追いながら村上春樹論を展開する。

初期(80年代)の村上春樹は、ビッグブラザーが徐々に崩壊する時代における倫理のあり方としてデタッチメント(距離を置く)という態度を提示し、それに成功した作家でもあった。それが「僕」一人称の世界において、ナルシシズムを記述する文学世界である。

その後、春樹はデタッチメントという文学的態度を転向することになるのが、「ねじまき鳥クロニクル」(95年)以降の春樹の文学的苦闘(迷走)は、リトルピープルの時代における課題(無数の小さな父が衝突し合う時代の暴力)を扱う想像力を生み出せない点にある。

そんな近年(海辺のカフカ、1Q84あたり)の村上春樹が直面している文学的課題(=リトルピープルの時代における課題)の正体を、本書ではウルトラマン、仮面ライダーという作品が通過した変質(特に、平成仮面ライダーの奇形進化)を通じて明らかにしていく。

平成の仮面ライダーは、"いわゆる"仮面ライダーとは大きく異なっている。例えば、「仮面ライダー龍騎」という作品では13人の仮面ライダーが各々の願いを実現するためにヒーロー同士のバトルロイヤルを繰り広げる。この作品は、無数の正義が対立する時代(リトルピープルの時代)を直接的に描いている。

もしくは、過去の仮面ライダーを召喚したり、過去の作品の仮面ライダーを身に纏って戦う「仮面ライダーディケイド」という作品がある。まるでウィキペディアをひくように戦うヒーローの姿は、歴史なき時代の歴史の在り方(ビッグブラザーなき世界)を象徴している。

・・などなど、平成の仮面ライダーは、偉大なる作家の想像力以上にこの時代を正確に映し出している。本書では、これらの流れを詳細に追いながら、リトルピープルの時代像に迫っていく。それは村上春樹を迷走させた文学的難題であると同時に、我々が未だ答えを出せていない社会の課題でもある。

いち春樹読者としては、なぜ"ねじまき"以降の村上春樹が読めなくなったのか・・、という疑問に対して実に納得性のある理解を与えてくれた。いち市民としての悩みは深まるばかりだけど、子供向け番組の枠内で13人のヒーローが殺し合う時代の奇形性には自覚的であるべきだなと感じる。

f:id:familybusiness:20190712233923p:plain

読書録:ゼロ年代の想像力

宇野常寛氏の評論にハマっております。

マンガもアニメもインターネットも好きなのになぜか宇野常寛氏に触れる機会がこれまでなく、お正月にやってたNHK特番「平成ネット史(仮)」で初めてお顔と名前を認識した。番組の中で同氏の発言がとても納得度の高いものであったことで興味を持って初めて評論家であるらしい、ということを発見(?)した。

そんな経緯で彼の評論集3冊、「ゼロ年代の想像力」「リトル・ピープルの時代」「母性のディストピア」に出会い、「とても大事なことが書いてある本だ!」と直観して読み始めた。3冊重ねると鈍器のような分厚さで、割と読書家の私にしても辛い分量と内容の濃さであったが、メモを取ったり参考資料に目を通したりしながら飽きずに通読することが出来た。分厚くて面白い本に出会えるというのは人生の幸福の一つだ。

 

*読書メモ*

「ゼロ年代の想像力」(2008年)

宇野常寛のデビュー作となった評論集。本書のタイトルにもあるゼロ年代は、小泉政権による構造改革(小さな政府路線の民営化や、雇用の流動化)が推し進められた時代であり、911世界同時多発テロが起こった時代でもある。そして本書の発刊後にリーマンショックが起こることになる。そんな時代背景は、ポップカルチャーの想像力にも大きな陰を落としていた。しかし、90年代の影響に引きずられたままの当時の評論界は、ゼロ年代を語る言葉を持たなかった。本書は、既に古びてしまった90年代の批評を退場させ、ゼロ年代の想像力を論じることを目的とする。

 

宇野常寛が指摘する、90年代の古い想像力とは何か?

それは「頑張っても報われない」「だから何もしない」という、引きこもり/心理主義である。その社会背景を象徴するのは、平成不況の長期化(頑張っても豊かになれない)と、95年に発生したオウム地下鉄サリン事件(生きる意味が分からない)。そんな時代の雰囲気を、95年新世紀エヴァンゲリオンでは「ロボットに乗って戦うことを拒否するパイロット」(社会的自己実現を果たすことの拒絶)、「世界を救うことより母親的な少女からの愛・承認を求める主人公」という描写で描き出した。

東浩紀のセカイ系論など、この時代を評論する言葉は確かに当時の論壇には存在していた。しかしゼロ年代に入って既に、「頑張っても豊かになれない」「生きる意味が分からない」ことを"前提"とした作品群が誕生していた。それが同書で語られる"ゼロ年代の想像力"である。

ゼロ年代の想像力とは何か?

それが氏が、サヴァイブ系(のちにカードゲーム系?)と評する作品群である。

ゼロ年代を代表する作品として挙げられる作品は、「DEATH NOTE」。この作品で主人公は、大人(社会)が自分の生きる意味を保証してくれるなどとは微塵も信じておらず、大量殺人を犯すことで彼の正義を追求する。

「頑張っても豊かになれない」「生きる意味が分からない」だから引きこもる、というのが90年代の思想であれば、「頑張っても豊かになれない」だから他者を蹴落とす(サヴァイブ)「生きる意味が分からない」自分の正義を決断する(決断主義)。というのがゼロ年代の主人公である。その価値観においては、"引きこもる若者"は体制への反逆者ではなく真っ先に蹴落とされる弱者でしかない。聖域なき構造改革に代表されるゼロ年代の社会情勢は、我々の想像力に「引きこもっていたら殺される」という影響を与えた。

本書はそんな状況認識のもと、マンガ・アニメ・映画・テレビドラマといった幅広い作品群を手がかりにこの時代における課題に対峙していく。その課題とは、決断主義が陥る排他(暴力)の問題であり、90年代から続く自己承認の幼児的な追求が無自覚に陥る性暴力の問題でもある。

彼の的を得た時代認識もさることながら、どこまでも暴力と思考停止を嫌悪して"考え抜く"彼の姿勢が私はとても好きである。その後、「リトル・ピープルの時代」「母性のディストピア」に続くに至り、評論はどんどん辛口(?)になっていくけれど、時代の難しさと真摯に向き合っている証拠なのかなぁと思う。

f:id:familybusiness:20190711232512p:plain